世田谷と武蔵吉良氏

武蔵吉良氏は、本家筋の三河吉良氏の後裔で上野国飽間郷を領していたが、吉良治家が貞治5(1366)年に鎌倉公方・足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領してこの地に居住するようになったという。
治家の子・成高は太田道灌とも誼を通じたという。このころに世田谷城は城郭として修築されたと考えられる。


長徳寺開基

弦巻の長徳寺は現在の弦巻2丁目にあった。この地は世田谷城をさること南に約2キロの地点であり、鎌倉時代よりこの地は阿弥陀丸と呼ばれていた。世田谷城防衛上の観点から長徳寺の建立が進められたと考えられる。寺の開設は長享2年(1488)で、開基は当時の世田谷城主である吉良成高である。


長徳寺移転

成高の子、頼康の代に長徳寺は本芝に移転させられる。永禄2年(1559)のことである。本芝には吉良家の所領があり、漁業並びに水軍用としてこの地の開発をすすめるにあたり、長徳寺を移転させたものと考えられる。頼康は後北条氏と姻戚関係になっており、北条氏が水軍を重視していたことからも、長徳寺の移転は吉良・北条の軍事戦略の一端であると考えられる。


余談(金杉・芝町)

現在の港区には「金杉橋」「芝」という地名がある。これは吉良家の居城が世田谷の他に蒔田(横浜市南区)を居城としており、この地と先の「本芝」の地との船舶の往来が行われるようになったが、その際に、蒔田にある地名「金沢」「杉田」「柴町」の住民の移住などによりその名が付けられその由来となったと考えられる。
ちなみに、武蔵吉良家は江戸時代には蒔田氏を称している。


      




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