京都
本願寺派末     本芝三丁目
光明山清浄院長徳寺 


「起立之儀長享二年共、延徳元年共申伝候、元地之儀武州世田ヶ谷つるまき阿弥陀丸申処太子堂有之、光明山清浄院長徳寺申候、於只今世田ヶ谷長徳寺跡ト申地名壱町四方程有之候、今以此所旦家少々御座候、其時分、寺号ニ而住僧ト申者定御座候、然ル処、常盤駿河守鎌倉ニ而討死致、其宦為菩提剃髪致、所々仏閣順巡候処、世田ヶ谷太子堂参籠之節、当堂止り菩提を弔、霊夢を候故、其寺住居相定申候、其宦奉仕候者之子孫永禄二未年、本芝三町目寺引移申候、其後、明藝申僧西本願寺十三代良如上人帰して専修念仏之門入、自行化他他事して、寛永廿未年六月八日、行年八十二歳ニ而寂、依之明藝を当寺中興開基相定候」

                        (『御府内寺社備考』)  ※参考『地誌書上帳』


<書き下し文>
「起立の儀は、長享二年とも延徳元年とも申し伝え候。元地の儀は、武州世田ヶ谷つるまき阿弥陀丸と申すところに太子堂これ有り、光明山清浄院長徳寺と申し候。ただ今に於いて、世田ヶ谷に長徳寺跡と申す地名壱町四方程これ有り候。今に以て此の所に旦家少々御座候。その時分、寺号のみにて住僧と申す者も定まらず御座候。然るところ、常盤駿河守鎌倉にて討ち死に致し、その宦、菩提のため剃髪致し、所々仏閣順巡候ところ、世田ヶ谷太子堂へ参籠の節、当堂へ止り菩提を弔い霊夢を蒙候ゆえ、その寺住居と相定め申し候。その宦に奉仕致し候者の子孫、永禄二未年、本芝三町目へ寺引き移し申し候。その後、明藝と申す僧、西本願寺十三代良如上人へ帰して専修念仏の門に入り、自行化他他事無くして、寛永廿未年六月八日、行年八十二歳にて寂す。之れに依り明藝を当寺中興開基と相定め候」

                                                   
<現代語訳>
「起立については、長享二((1488))年とも延徳元((1489))年とも云い伝えられて来ました。元の地は、武州世田ヶ谷つるまき阿弥陀丸という所に太子堂がありまして、光明山清浄院長徳寺と申します。現在では、世田ヶ谷に長徳寺跡という地名が一町四方程の所にあります。いまなお、ここに壇家が少々ございます。その当時は寺号のみであり住僧と申す者もおりませんでした。しかし、常盤駿河守が鎌倉にて討ち死にし、その家臣が菩提のため剃髪をし、所々の仏閣を巡礼しておりましたが、世田ヶ谷太子堂へ参籠したとき、当堂へ止まり菩提を弔いましたところ霊夢を見たことから、その寺を住居と定めました。その家臣に仕えた者の子孫は、永禄二((1559))未年、本芝三町目へ寺を移しました。その後、明藝という僧が西本願寺十三代良如上人へ帰依し、専修念仏の門に入り自行(じぎょう) 化他(けた)に専念し、寛永廿((1643))未年六月八日、行年八十二歳にて寂されました。このことから明藝を当寺中興開基と定めております。」



(※注) 『新修 築地本願寺別院史』によれば、1638年(寛永15年)7月18日に「・・・本芝長徳寺・・・木仏・寺号御免」とでている。これにより正式に浄土真宗 西本願寺末に加わったと考えられる。.