「タンチ山」のたぬきの恩返し(『せたがやの民話』より)

タンチ山に突然お寺を建てることが決まり、山のふもとの百姓彦兵衛にも立ち退きが命ぜられました。
彦兵衛は立ち退きに際して、役人に自分は代わりの土地が与えられるから良いが、山にいるタヌキやリスがかわいそうでならないと訴えました。
それを聞いた役人は、彦兵衛の家と周りの雑木をそのままに残し、代わりに畑を一部ひらくということにしてくれました。これを縁の下で聞いたタヌキやリスは目頭を熱くしたそうです。

何年か過ぎ、タンチ山に立派なお寺が建ちました。
しかし翌年には村は竜巻とひょうに襲われ、夏には冷雨が、そしてサトイモ畑には花が降ってくるという不思議な日々が続き、どこも不作となりました。
するとある晩、彦兵衛の家を、タヌキが米俵を抱えてやってきました。あくる日にはリスが大豆や小豆を抱えてやってきました。タヌキもリスも彦兵衛に恩返しをしにきたのです。

という、「目頭が熱くなる」ような恩返しの話です。

タンチ山に建立されたお寺というのが実は「長徳寺」です。1488年に吉良成高が開基し、その後1559年に吉良頼康が江戸本芝に水軍の基地を設けたため、長徳寺も本芝に移転しました。第二次大戦で戦災にあいましたが、太子像と寺宝は桜上水に移転していて、昭和41年に本堂が現在の位置に建てられました。1559年に長徳寺が移転した後は、昭和初期まで雑木林でした。明治の末ごろ、こじきの親方タンチイ夫婦がこの山に住み始めてから、タンチ山と呼ぶようになったそうです。(※ですからこの昔話のころはタンチ山と呼ばれていないことになります)
タンチ山は現在はほとんど住宅地となっていますが、その住宅街を歩くと、ところどころに大木が残っているのがわかります。また、タンチ山の雑木林の姿が、駒沢中学校の一角に残っています。

長徳寺は、はじめ「タンチ山」(弦巻)の地にあり、芝に移った後、昭和になってゆかりの世田谷に戻ってきた形になります。
























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